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2009年1月26日 (月)

久々の衝撃

久々に衝撃の書に出会った。

中谷巌「資●主義はなぜ自壊したのか」である。検索エンジンで検索されるのを防ぐために●にしてあるが、ここには「本」が入るのは言うまでもない。

最近の異常な世の中、これを冷静に分析した名著(になりえる)であろう。行き過ぎたグローバル資本主義、新自由主義の破綻など近代経済学の大家である氏が自戒の念も込めて、書き下ろした本であるが、内容はここでは詳しくは書かないが是非一読を勧めたい。

驚くべきは、中谷氏自身の信奉してきた近代経済学の事実上の否定である。拙者的にはこれは衝撃だった。

この本を読んでいて思い出したことがある。拙者が大学院に入学したての頃だ。

拙者の学んだ大学院はまさにアメリカ的近代経済学研究が盛んな大学だった。文系的な経営学のようなあまり定性的な理論は褒められることがなく、統計学をベースとした計量経済学や数学など定量的な手法を駆使した研究が盛んで、そういうものこそが最高であるといった具合だった。

先生は皆、米国に留学し、博士号を取得した先生方で、思いっきり市場原理、自由競争こそが世の中の厚生を極大化するのだといった理屈が支配していた。それは拙者に言わせれば、ほとんど原理主義的なイデオロギーのようなものだった。

そもそも経営大学院なので、実務的なことがもう少しあるかと思ったら、結構どころか相当アカデミックで、最初は拙者の苦手な数学や統計学ばかりやらされ、さらにはそれを使ったコンピュータ解析など、本当についていくのがやっとで入学早々死にそうになった。

学部時代は専攻が全く違うので、経済学については大学時代は一般教養レベル以下の知識しかなかった。大学院に入るために一応は勉強したが、付け焼刃以外の何物でもなく、試験が終わった途端に全部忘れるありさまだった。

本格的に授業が始まり、経済学の授業が始まったときの拙者の最初の感想は、違和感の一言だった。

前提条件や仮定に基づき(これがものすごく胡散臭く感じた)、理論が展開されることもさることながら、自由競争という考え方にも拙者はなじめなかった。頭が悪すぎるのか、今だから言うが考え方を理解するのに、1年半ぐらいかかったから、マスターコースの修了間際までなじめなかったということだ。

ある授業で、こうした考え方について議論になったとき、当時、石油業界という規制業種出身の拙者が発言を求められたとき、拙者はこんなことを言った。

「規制を利用して、その企業が利益を極大化するのは本当に悪いことなのか?規制を参入障壁として利用して企業がいい思いをするのは、それはそれで立派な企業戦略ではないのか?」

と発言したところ、一体こいつは何てトンチンカンなことを言っているのだとばかりに、教授にボコボコにされたのを今でも覚えている。競争的でないマーケットなんて、とんでもないといった具合だった。

そのとき、なぜそれがいけないのか、拙者はいくら言われても理解が出来なかったのである。今にして思うと、当時はロジカルには説明できなかったが、その違和感はある意味で正しかったのかもしれない。

ちなみに、拙者は最終的にはその先生のゼミに入門し、修士号を取得しているのだから、皮肉としか言いようがない。

拙者のかつていた石油業界も、その後の規制緩和で古き良き時代は終焉を迎えた。利幅は自由競争で完全に失われ、元々はその厚かった利幅を前提に多数の雇用が創出されていたが、経済合理性の追求と競争激化に伴って事実上の無人店舗となる給油のセルフ化、そして窓拭きサービスやスタンドマンの道路への送り出しといった付加価値?サービスはすっかり見かけなくなってしまった。

行き過ぎた競争によって、ぺんぺん草も生えない全く魅力のない市場になってしまい、業界としても活力を失ってしまった。

今にして思えば、こういう言い方は失礼だが、ヤンキーや不良上がり、低学歴の人材でもああいったセクターで雇用が確保され、それなりの生活基盤を維持できていたのに、それさえもなくなってしまったのだ。

考えてみると、産業界ではそうなってしまった業界がほとんどではないだろうか?企業も活力がなくなれば、実業団などのスポーツや華やかな広告など、様々な文化的な面も一気に廃れてしまった。

経済理論では「非効率」と片付けられてしまうようなものも、かつてはいい意味で温存され、富の分配もそれなりに広くあまねく行なわれていたのである。

それが精神的にも”余裕”を生み出し、総じて満足度の高い平和な社会を生み出していたのである。

一転、全てにおける効率重視が格差を生み出し、スーパーリッチに代表される富裕層とワーキングプアに二極化し、一度後者に落ちたら個人の努力だけでは挽回できないほどの格差を生み出してしまったわけである。

そうした中で社会がすさみ、日本人の伝統的な価値観や優れた社会規範を破壊してしまった。どうやってそれらを再生すればいいのか、今のままだと皆目見当が付かない。

もう一つ衝撃だったのは、昨日NHKスペシャルでやっていた南アフリカの現状についてである。15年前までアパルトヘイトが存在し、黒人は差別の撤廃に向けて一枚岩だったはずの社会が、少数の富裕層と多数のワーキングプアに二極化し、様々な社会問題を引き起こしているという内容だった。

こうしたことが世界の至るところで起こっており、その行き着くところに何があるのか、今回はそういったことへの不透明感という重い問題を抱えてしまっていることを改めて感じた次第であった。

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2009年1月16日 (金)

早くから社長候補って?

今朝、日経新聞を読んでいたら、「み●ほFG3首脳4月交代」の記事があった。

どの新社長、頭取もなるべくしてなったのだろうが、それにしても新聞にまで「早くから社長候補の本命」と記事に書かれていたりして、そう書かれるあるいは言われるその根拠って一体何なんだろうと素朴な疑問を持った。食っているものでも違うのだろうか?(笑)

というのも、そういう会社にはほとんど同じ学歴の人が数百人とか同期でいて、前後の年次も合わせるととんでもない数の潜在的候補者がいるわけだが、なぜその人なのか?どうして、早くからそう見なされるのか、考えてみると不思議なものである。

で、早速、拙者は身近にいるその金融グループ出身者にインタビューして回った。

「早くから頭取候補とか、そういわれる人って何が違うんですかね?」

たまたまだと思うが、「さあ・・・」「何かが違うんだろうねえ・・・。」という気の抜けた回答が多く、ほとんど具体的な話は出てこなかった。

仕方がないので、拙者は「やっぱり、オーラとかが違うんですかね?」とフォローするのが関の山だった。

ちなみに、今回聞いて回った方々の出身大学は、ほとんどその社長、頭取と同じである。

地アタマとか能力とかは基本的には全然差がないはずなのに、一体この違いや差は何なんだとますます訳が分からなくなった。

拙者なりに傾向と対策を分析した結果、いくつか言えることは、①運が良い②リスクが少なく経歴に傷つかないポストを歴任(要するにドサ回りとか、ガチで仕事するセクションには行かない)③国立の最高学府を少なくとも出ている④(②と関連があるが)そもそも何か特待生的扱いを受けている、といったところだろう。

つまるところ、エッセンスは②だろう。歴代の人は全く同じような経歴の人ばかりである。ガチでやってきた営業の叩き上げなんていう人はこの手の会社のトップにはまずいないのだ。

略歴を入手してみると、基本的には企画部門とかの管理部門の出身で、社費で留学していたり、かっこいい感じの海外拠点を渡り歩いていたり、営業現場経験といってもリスクの少ないバカでも儲かる営業店でしかもそこの部門トップで祭り上げられていただけといった、絵に描いたようなエリート、そんな感じなのだろう。

ひるがえって、拙者の出身の証券会社では、こう言っちゃなんだが全く逆で、基本は営業成績が良ければ学歴不問に近いものがあった。むしろ、東大や京大を出た人はかつてこの業界を忌み嫌って入ってこなかったこともあり、地方の”駅弁大学”なんか出ているのがトップになることが多かった。実際、頭が良かったかと聞かれたら、「・・・」というのが本音である。

こうなってくると、拙者でさえ、「オレも駅弁大学出身だけど、全然チャンスあるかも」と思いっきり勘違いというか、希望を抱かせるに十分なほどだった(笑)。

ちなみに、トップになっていた人のイメージを一言で言うと、”ジャイアン”みたいなガキ大将タイプである。とにかく押しが強く、見た目も怖い、口答えすると「うるせえ!」と鉄拳が飛んできそうな雰囲気である。

とにかく怖くて、周囲の人間は「なーんも、言えねえ」ってことで、権力を握るチョー分かりやすい構造だった。

拙者などは、出世とか全くそういうのとは無縁で、”窓際旗本”どころか、”窓際御家人”以下のザコキャラそのものなので、どういう人が社長になっているのか、野次馬のように好奇の目で引き続き見聞きしてみたいと思っている。

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2009年1月15日 (木)

機会の平等でなく結果の平等の愚

最近、日本人の”気質”、”精神”の劣化が激しい。

異常犯罪の増加、学力の低下、全てにおけるモラールの低下、(迷走する政治、派遣労働問題等々)後先考えない行動の蔓延、これはもう国として終わっているとしか思えない。

そんな中、自らの力で自らの人生を切り拓くことを忘れ、権利ばかりを主張する輩が横行し、能力のない人間が能力のある人間の分まで食いつぶすような事態が起きている。

弱者救済の名の下に、バカな政治家どもは”定額給付金”だのという超愚策まで言い出している。こんなの共産主義以外の何物でもない。

昨年のノーベル賞で分かったのは、受賞するような優秀な研究者が実は日本には住んでいないように、しがらみまみれでレベルの低いものに付き合わされるのはたまったものではないのだろう。

それはさておき、違和感を感じるのは派遣村ってやつである。

前にも書いたかもしれないが、住む家もロクに手当てせずに不安定な仕事をしている人がこんなにいるのかということに驚きを禁じえなかった。少なくとも、家がないのなら実家に一旦は身を寄せるなり、方法はあると思うのだが、なぜ野宿まがいのことをするのか?いくらなんでも全く身寄りがないということはないだろう。

いずれにせよ、生活が苦しいだの、助けてくれだの言っている暇があったら、自らその立場を脱却すべく精進すべきである。

日比谷公園でタダメシを食っている暇があったら、住み込みでパチンコ屋のホール係だの、人材が足りない介護の仕事だの、なりふり構わず生活するために真剣になればいいのだ。少なくとも、拙者にはそういう努力の形跡はあまり感じられない。こういう言い方は失礼だが、生意気にもそういうのに限って仕事を選んでいたりするのだ。

中には不幸にしてそういう境遇になった人もいるかもしれないが、多くの場合、そういう風にはどうしても見えないのである。

おまけに、噂によるとこういうキャンプに共●党が”営業”に行っていて党員募集をやっているということがまことしやかに言われている。それにしても、言われてみると本当にありそうな話でこわい。

ついでに言うと、先日知人でちょっとクチの悪い人がこんなことを言っていた。

「TVを観ていたら、派遣村の人でもタバコを吸っているのがいた。金がないとか言っている割には、タバコを買う金はあるんだよな。刹那的な生き方をしていて後先考えていない身勝手な連中で、自分の”娯楽”には金を使っていたりする。」

拙者はそんな細かいところまでTVを観ていないから、真偽のほどは定かではないが・・・。

放っておいたら、今度は雇用しろとか、権利を主張しだして、そもそも能力的にどこか問題があるからそうなっているのに、何を考えているんだという気にさせられる。

暴論かもしれないが、必要以上のセーフティネットは生活者としての自覚や緊張感を持たなくなるから、やはり”信賞必罰”に基づく”自助努力”を促すべきである。

一生懸命やってもやらなくても、結果の平等を与えてしまう、そんな国家には未来はない。

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2009年1月 3日 (土)

09年今年の初笑い

あけましておめでとうございます。

去年の今頃は初夢について書いた記憶があるが、しかもインドかなんかに行く話で、今から考えると荒唐無稽のような夢を見たものだ。

まだ景気もこんなことにはなっておらず、新興国はまだ日本から比べれば夢があったし、そういう気分もあったが、ことしは散夢不来夢のためか、何も夢を見なかった。そればかりか、三が日は夜中に目が覚めて、その後寝付けず、どうもダメで、夢どころではなかった。

080224_13240001 一方、今年の拙者の初笑いは、正月に吉祥寺を歩いていたら、とあるパチンコ屋の前に、でっかい”まりもっこり”の人形が飾られていて、その人形の前で数人の白人の女性が"Oh!!"(白人女性のセクシーな声を想像してみよう!)とかいいながらデジタル一眼レフ(キヤノンのKISSデジ)で股間”を激写しているのを見たときであった。

まりもっこりは北海道では有名なご当地キャラだが、知らない人のために左に写真を付けておこう。

日本人観光客が、日本人にとって珍しいものを海外で見たときに写真を撮っていると、海外の人にはああいう風に見えるんだろうな、と思ったりした。

今年の正月は特に家をほとんど出ることもなく、親や親戚とひたすら飲んでメシを食ったり(もちろんキトサンも飲んで)して、後は本を読んだり、クルマを洗車したりして終わった。

みなさんはいかが過ごされたのでしょうか?

それはさておき、今年も始まったが、せめて正月を境に少しは気分を変えて、来年の今ごろはポジティブサプライズの年だった、と言ってみたいものである。

というわけで、本年も宜しくお願いします。

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