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2009年6月27日 (土)

苦労して得た情報のありがたさ

学校で勉強し始めて改めて思ったのは、ネットを使って簡単に情報が集められる環境と自分で情報を集めに行かないと必要な情報が手に入らないというのでは、情報に対する価値観が全然違うということ。

大学でのレポート提出や勉強においては基本的にネット検索した情報をそのまま用いるのは、原則禁止だから、図書館通って本を読んでという超アナログな情報収集を強いられる。

そのように、自分にとって真に必要な情報の選別を手間ひまかけて自分でやるという行為そのものに改めて新鮮さを感じたり、そうして得た知識の重みやありがたさは全然違うのである。

拙者などはアタマが悪いので、書物を読んだだけでは実は全くといっていいほど頭に残らない。なので、実際手を使って書いてなぞってみる。多少はマシだが、それでも定着率はいいとはいえない。でも、やらなかったら何も残らないから、やらないよりはずっとマシである。要するに不器用なのである。

先日、ある先輩の同僚が拙者がかつて獲得した案件の提案書を汎用の雛形にしたいから、データのファイルをくれないかといってきた。

どうやら、それを使えばどんな人でも勝てると思ったのだろうか?

拙者はそれは違うと声を大にして言いたい。パクったところで、その提案書の行間にあるノウハウこそが本質であって、そういうものは細部にこそ宿っているものなのである。そこを詰めていく努力や、もっと言ってしまうと、そもそも出来レースに持ち込む日頃の行動こそが、勝利の秘訣なのである。

仮に、その資料をアタマがいい素人の人が分かったつもりして説明したところで、すべての質問に対応できるだろうか?多分出来ないと思う。きっと、素朴な疑問であればあるほど答えられないはずだ。

自分でやりもしないで、分かった気になるのは、危険この上ないし、カネもかけている上、絶対に失敗が許されない話をしなければならないのに、こちらを信じて依頼してきた顧客をバカにしていると思う。

拙者は、そんな提案資料を作るとき、ある程度アウトラインは定型的(いわゆるフレームワーク)にはなるが、一つ一つをオーダーメードしている。イメージとしては、F1レースなどでエンジンを毎戦毎に改良進化を加えるように、見た目は同じようでも中身は結構変えているし、それがプロとしてのプライドであり、こだわりなのである。もちろん、拙者も大一番では徹底的に作りこんだ”スペシャルエンジン”を用意して勝負に臨んでいる(実は、仮に負けても諦めがつくようにやっているだけかもしれない)。

我々の仕事も自動車レースの世界と一緒で、汎用や型落ちのエンジンで勝てるレースなど、ちょっとレベルの高いカテゴリーではありえないし、それでいいと思っているのは本当にこの仕事をなめている証拠だと思う。

一応の実績に対するレスペクトがあるから、拙者の”マシン”を貸してくれということなんだろうが、拙者に言わせればそんなもの”型落ちのマシン”だし、最新仕様の”ワークスマシン”は拙者(あるいは真にノウハウを持つ人)しか作れないし、だいいちそういうマシンほど”乗り手”を選ぶのだと言ってやりたかった。

最も価値のある情報は、汎用とかコモディティ化やモジュール化には、なじまないものなのである。

自分の足で、手で、苦労して情報を得る姿勢を、それがたとえ大変なことであっても失いたくないものである。

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2009年6月21日 (日)

乗り換え断行

結局、現在の愛車は売り払った。いろいろとムダをやらかしたが、本当に損切りということだ。一時的に痛手はあったが、将来のツケを軽減するため、やむをえない措置であった。

こだわり&自慢の愛車だっただけに、実に割り切れない思いが正直あるのだが、そういうのに流されてはいけないと、意を決してリストラを断行した。実に素晴らしい車だったが、この車に乗るようになってから運が下がった。そういうこともあり、売ったのは正解だったと信じたい。

ということは、スバルが新しい車として入ってくることになる。そちらは、新規導入の手続きを実施した。EXIGAという車種である。7人乗りの多目的車で、拙者の趣味である写真撮影でも威力を発揮してくれる車だろう。スバル車は15年前にレガシィGTツーリングワゴンを四国時代(よく高松-松山間の高速をかっとばしていた)に乗っていたが、それ以来で”スバリスト”復活である。当時のこの車、実に素晴らしく、260馬力程度のツインターボを搭載し、実に速くてあの印象が忘れられず、今回復活となった。

スバル(富士重工)といえば、戦前の中島飛行機。旧陸軍の名戦闘機の”隼”や”疾風”などの名機で知られるメーカーで、拙者が四国で乗っていたレガシィはボディカラーをそれらの戦闘機にちなんで濃緑色にし、”隼”号と勝手に名付けていた。だから今回は”疾風(はやて)”号と名付けることとしたい。

それはさておき、愛車を売ったからといってそのまま車なしの生活になってしまうわけではない、何と新車が来るのだ、超ラッキーとポジティブに考えることにした。

装備も本当に必要なものを厳選して盛り込み、極力ムダを排した。それでも、ナビは新しくなるし、どさくさまぎれにパワフルなターボエンジン搭載モデルにしたり、タワーバーでボディ剛性の補強や顔面のドレスアップなど、細かいこだわりは妥協せず、黙っていろいろやらかしている。それでも安いのだ。これだけいいものが、この値段で実現できる、日本製はやっぱり素晴らしい。

しかも今回は所有せず、税金やメンテナンス込みのリースにしたので、今回みたいに転売や中古車の処分とかも考えなくていい。リースにしたのは理由があるが、詳しくはここでは書かない。

ギャラの減少など、いろいろなストレスでずっとおなかの調子が悪かったり、このところ全くひどい目に遭ったが、これまでの拙者のバブった生き方、考え方を改め、家だけは贅沢に一点豪華主義、それ以外は堅実路線で拙者の家計の立て直しを図っていきたいと思っている。

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2009年6月20日 (土)

参った参った

最近、ずっと書く気になれずブログをアップしていなかった。

一番の理由は夏のボーナスの悲惨さだ。拙者のような専門職は年俸制で業績賞与(ボーナス)は年1回なため、それは生活の上で最も楽しみにしているものであり、意味合いも大変なものがあるのだ。

それが実に悲惨な結果に終わった。まるで、災害被害者の見舞金か、新卒学生のご祝儀かというショボさ加減だった。

実は昨年、サブプライムの影響で多数の首切りを伴うリストラと大幅な賞与カットを食らっていたため、いい加減、アクヌケしただろと思っていたら、実勢に合わせて下げてきやがったというか、ほとんどなしだったと言っていい。でも、業績は黒字だったのだ。

ここ2年ほど、そういう状態がなぜか続き、下がる一方だったが、もうこれ以上下がらないというところまで来たので、さすがに下げ止まると思うが、調子こいて来年以降も横ばいにしてこないか、それがもっぱらの不安材料である。

しかし、役員とかのオヤジも痛み分けしたという話は聞いていないだけに、周囲のメンバーの反発も強く、しかも情けないことに今回下げる理由を上司に質したところをロジカルに説明し切れなかったのである。

そりゃあ、説明できないだろ。自分たちが食い散らかした残りかすを食っていろということなんだから、まずは自分が責任を取って腹を切り、その上で泣いてくれというのなら分かる。全然そんなんではないのだから。。。

当然、そんな上司たちの求心力はゼロになる。隣の部署とか見ていてもそうだが、上司に対する部下たちの視線の冷たさといったら半端ない。何を言っても、ああそうですかという感じで、言うことなんか聞かない。それで上司が悩んでしまうほどだ。

個人の業績を重視しておきながら、組織の事情を持ち出して、報いていないのだから、「今年はナンボ稼ぐんだ」などといわれても、「こんなことやらかして、そんなことよく言えるな。その前にオレたちに何か言うことがあるんじゃないのか」ということになる。成果主義なんて、ちゃんと運営出来ないんだったら、はなから共産主義の人事体制に戻せばいいのだ。

そう考えると、年功序列の人事制度に全部戻して、平和裏に会社を運営すればいいのにと最近思ってしまう。多少の悪平等はあるかもしれないが、日本にはそのほうがいいような気がした。ここまで日本の企業がダメになった理由はそんなところにあるような気がするくらいだ。

何だか愚痴になってしまったが、おかげで拙者のスーパーカーもリストラで手放そうかと思っている。とはいえ、少なくとも残債の金額以上で買い取ってもらって、価格も維持費もリーズナブルな国産の実用車に乗り換えようと思っているのだ。

ただ、今の愛車を新車購入という見返りなしで単純に手放すだけでは、いい見積りは出ない。そうなると、安価なものではあるが、一応新車への乗換えで支出を抑えつつ、ディーラーに少しでも高く買い取らせることがexit戦略として最善策と考えたのだ。

実はだいぶローンの支払いも進んでいて本音は売りたくないのだが、先々の維持費やいろいろなことを考えると、これ以上付き合うのはまずいと思ったのだ。証券マン的には”損切り”的発想なのである。変にこだわって深みにはまる前に割り切ろうというものだ。

しかも、拙者のスーパーカー、レア過ぎて、市場に出回っておらず相場が立っていないのだ。だから、中古買取価格が割り出せない。流動性がないということは、逆にこれは危ないなと思ったほどだ。だから、損しない範囲で売れるのなら今のうちに売った方がいいと思ったのだ。相場が崩れたら目も当てられないから、逃げるが勝ち(価値?)だと。そういうところ、実に証券マン的。

おかげで、この土日は車の相見積り取りや価格交渉に奔走している始末。実に情けない。

しかし、いい意味で解釈すれば、この際、金のかかる外車と決別するいいチャンスでもあり、別に車が完全になくなるわけでないのだから、贅沢と思わなくてはならない。しかも今の車になってから、あまりいいことがなかったので、言い方は変だが、厄介払いみたいなものだ。

でも、拙者は要領が悪いので、新車を買うのに今はやりの”減税対象車”なんざ、見向きもしないあたり、ロックなオレ(笑)などと、そんな自分のことをいとしく思ってしまうのである。

今の候補はスバル製を考えている。四駆で水平対向エンジンにターボというこだわりはトヨタとか日産の車では満足できない車好きの譲れないところではある。

まだ悩んでいるが、明日には結論を出そうと思っている。

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2009年6月 5日 (金)

拙者の生まれ故郷に行ってみました

090605_14210001_3 たまたま近くまで来たので、今日、 拙者の生まれ故郷に行ってみた。もうここには数十年行っていない。

拙者の生まれた街は、最近やっているTokyuのCMに出てきそうな、典型的な郊外型の新興住宅地であった。

まず感じたのは、みんな建物は新しく建て替えられていたけど、当時の面影は残っていた。

それと街路樹の木が大きくなっていて、すごく落ち着いた街並みになっていた。雑木林を切り開いて開発された街だから当時も緑はそこそこあったが、当時は本当に新興住宅地だったのだ。

さて、昔の家つまり拙者の生家に向かって歩いてみる。

駅から歩いて間もなく、まず目に入ってきたのが、公園。よくここで夏は盆踊りをしたものだ。

とにかく歩いていて感じるのは、子どもの時の印象より街が小さく感じるのだ。体が大きくなり、目線が高いからだろうか?

公園のとなりにあったマンションは建て替えになっていて、某大手不動産会社が分譲マンションを建築中だった。よく買い物をしたそこのマンションの下にあったスーパーや本屋はなくなっていた。

その向かいには当時の高級マンションがあったのだが、それはそのままだった。築40年ぐらいにはなるはずである。

090605_14270001 さらに歩いていていくと、大きな交差点があり、その近くにはよく母と買い物をした八百屋さんがあったのだが、廃業していた(左の写真)。気のいい店のおばあちゃんはとっくに亡くなっているのだろうし、改めて時間の経過を感じたものである。

その向かいには幼稚園、小学校の同級生の実家の材木屋があったのだが、これも廃業したのか移転したのか、今はアパートになっていた。

さらに生家跡に向かって歩いていくと、丘の上に上がるS字の坂がある。

かつて、そのたもとの農家の庭先にはアヒルが放し飼いになっていて、幼い拙者は「ほら、アヒルさんがいるよ」などとよく言っていたものだった。そんな光景が思い出されたが、今はアヒルはいない。でもアヒルが歩いていた農家に続く小さな坂道は当時の佇まいのままで、不思議な気分だった。

丘の上にあった生家に続くS字の坂を登る。ここも昔のままだ。拙者にとってはここが故郷の風景の一番のハイライトなのである。

小さな子どもには大変な坂だったのだが、今歩いてみると案外サラッと登れてしまう。

登りきると、雨の中、しばし立ち止まって坂の下に向かって懐かしく眺めていたものだった。

ちょうど坂の上のあたりに、かつての同級生の家があったのだが、これも全く跡形もなく、瀟洒な家が二軒建っていた。地主のおばあちゃんもとっくに亡くなって、相続かなんかで切り売りされてしまったのだろう。

090605_14350001_2 そして、いよいよ生家の社宅跡に着いた。

すでに住んでいた社宅はリストラでとっくの昔に売却され、今ではいくつかの宅地に分割され、建て売りと思われる住宅地になっていた。

わずかに中央の小道と、拙者の住んでいた社宅と同じ形状の隣にあった別の古い集合住宅(当時は某大手鉄鋼メーカーの社宅だった)が当時をしのばせる唯一のものである。この小道を幼い拙者はよく走り回っていたものである。

その裏にも同級生がたくさん住んでいた某大手商社の社宅があったのだが、そこも跡形もなく、そのまた隣の某大手電機メーカーの研究所も同様で、すべて整然と区画されたいい感じの住宅街に変わっていた。

090605_14380001 研究所の建つ前は広大な原っぱで、拙者が2歳か3歳の頃だと思うが、よく遊んだ場所である(古い写真に父と写っているのがあるが、とにかく空が広かった記憶がある)。しかし、あまりの変わりように、これには驚いた。

自分の通った幼稚園にも行ってみた。完全に建て替わって全く記憶とは違った風景になっていた。しかし、懐かしい場所だ。

ひとしきり、街を散策し、幼少の頃の記憶をたどってみた。なかなか有意義な時間であった。

しかし思ったのは、幼い頃過ごした街というのは記憶に残るし、その人の人格形成の上でも結構大きなものがあるなあ、と感じた次第である。つまり、どういう街で子育てをするかというのは重要で、その子どもが大きくなったときに、それは大変な思い出になるのだなと。

皆さんもたまには自分が幼かった頃、そして故郷の風景を思い出してみるのもノスタルジーに浸れてよろしいかと思いますよ。

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