よく、TVのインタビューやアンケートなどで、なぜ選挙に行かないのかと問われると、「何も変わらないから」と諦めてしまっているコメントが多い。実際、拙者もそういう気持ちが分からないでもない。
しかし、良し悪しや方向性の是非はともかくとして、郵政選挙のときも今回の選挙のときも一方に極端に振れるきらいはあるものの、国民一人一人が動けば、やっぱり自分で自分の道を決められるということは、おぼろげながら分かったのではないだろうか?
拙者は、法学部で憲法を改めて学んだが、その過程でいかに日本人が日本国憲法について、まともな教育も受けず、全く思考停止してしまい、よもやそれが改正できるものだということを考えてこなかったということを改めて知った。
憲法というと、日本人の感覚ではイメージとして第9条が最初に来るため、多くの日本人には、
憲法改正 ≒ 第9条改正 ≒ 平和主義、戦争の放棄の否定につながる懸念
みたいな連想が働く気がする。憲法は全部で第103条まであり、何も第9条だけではないのである。
これも実に恥ずかしい話だが、アメリカでもドイツでもなんでもいいが、諸外国では戦後だけでも何十回と憲法を改正している国が多いことを拙者は最近になって知った。一度も変えない先進国は日本ぐらいのものである。
1947年に制定された現行の憲法を金科玉条の如く守っているのは、それの出来がいいからということを通り越して、日本人の場合は単に思考停止しているだけではないか?
日本の場合は、憲法の改正プロセスが厳しいため、なかなか難しいのだが、日本国憲法の精神を活かしながら、やはり時代に合わせたマイナーチェンジというのは必要だと思う。
大事なのは、今の憲法というものが制定された歴史的な背景をもっと直視する必要があるということだ。どうやって出来てきたのか?、制定者の意図は?、当時のGHQの日本の占領政策の基本方針は?とかいろいろ調べていくと見えてくるものがある。明らかに、今と事情が異なるということに気が付くはずだ。
そもそも日本人は、憲法のことを知らな過ぎる。拙者も学部時代に教員免許を取るために、憲法が必修になっていたが、(教師の力量の問題も相まって)そのときのことは全くといっていいほど記憶にない。多くの場合、仕方なく嫌々やっているだけだから、頭になんか入っていないのだ。
つまり大学の法学部にでも入らない限り、学校でまともに教わることがないし、ひどいのは法学部のヤツでもちゃんと知らないのがいるぐらいだ(卑近な例でも政治家で何人かそういう人がいますよね)。実際、拙者もまだ学ぶ途上にある。
よく護憲、護憲というが、何であなたは護憲なのかということを問われて、まともな答えが出来る日本人が何人いるだろうか?政治家だってまともな答えが出来ないのではないだろうか?それが思考停止にさらに拍車をかける。
だいたい、第9条を仮に改正したとしても、日本がまた戦争を始めるようなことをするかというと、余程のことがない限り、ありえないと思う。そんなガッツ(?)を持ち合わせた人は、軍事のプロの自衛隊でも少ないというか、まずいないと思う。だから、取り越し苦労だということをいいたいのだ。
いろいろと書き出すと長くなるので、KO大学のコバ●ツ先生が授業でおっしゃっていた語録を以下に書くので、今回の総選挙、国民主権を考える上での一助にして欲しい。
(コ●セツ語録、というか拙者の講義ノートより)
長期自民党政権の中で、権力は永遠に自分のものと考えていた国会議員は前回の参院選で民主党が勝ち驚いたと思う。権力は国民のものと初めて気づいたのではないか?
憲法は本来権力者の暴走を防ぐためにあるもの。
生まれながらに権力の中枢にいた世襲議員は憲法の役割をはき違え、国民を縛ろうと考えていた。A元総理のように「国を愛せ」などという道徳にまで介入するのは全くおかしな話。
憲法は国民が幸福に暮らすための道具。古くなれば改正も必要。
第9条については、他国を侵略しないと明記した上で、自衛権、自衛戦力の保持について、憲法に明記すべき。
世襲議員は訓練を受けずに政治家になった結果、何でも役人に丸投げし、修羅場での交渉が出来なくなった。決定的なのは、米国にも物が言えないこと。世襲議員の親は総じて米国に対し、上目遣いで卑屈だった。本音は「ノー」でも「イエス」と答えてきた。結果、米国経済の負の部分をそのまま日本が引受ける”ババ”を引かされてきた。
世襲議員の弊害は明白。地盤、看板、カバン(カネ)を親から引き継ぐため、他の新人候補より圧倒的に有利に選挙で勝ち抜けることが出来る。これが政界への有為な人材の新規参入を妨げている。結果、庶民の感覚を理解できない政治家を増やし(注:誰のことか思い浮かぶでしょ?)、政治の機能を低下させている。
政治権力者の地位を特定の家族のものとして固定させ、いわば現代の貴族階級を作ってしまっている。これはそもそも第14条の平等権の保障、貴族制度の禁止の問題にもなる。
第14条では選挙における平等を規定している。だから、議員の世襲制限こそが憲法の要請だ。今検討されている制限策は、世襲議員にとって極端に有利な親と同じ選挙区からの立候補を禁じるだけのこと。
世襲が他者の被選挙権、職業選択の自由、平等権を侵害している。結果として政治の質を下げている弊害を直視して、公共の福祉(つまり社会全体の利益)のため、世襲制限によって当人たちの人権濫用を防ごうということ。だから世襲制限は世襲議員の言うところの人権侵害などではない。
世襲議員たちから、半ば感情的としか言いようがない反発が出るあたり、よほどその地位は捨てがたいのだろう。政治を家業として生まれ育っているから、それ以外の家業が考えられないというか、考えたくないのだろう。ならばなおさら、落選で、主権者は大衆国民であるということを知らしめる必要がある。
(以上、拙者の講義ノートより)
最後に、最高裁判事の国民審査について。
気がついた人もいるかもしれないが、ここ1週間で主要紙に意見広告の形で、1票の格差を合憲とした最高裁の判事を国民審査で落とそうというキャンペーンが掲載されたことをご存知だろうか?
ここでは約2名の判事の名前が挙げられているが、拙者の私見を述べるなら、残りの判事たちも政府・与党(自民党)が選んだ人物であるから、政権交代というのなら、そいつらの息のかかった全員に対しても”×”を付けるべきではないか?
この国民審査で落とされた最高裁の判事が過去いないことはよく知られていることであるし、判事のことを知らないから判断をしないというのが、日本国民の一般的な行動であった。
しかし、選挙でまず国民は「国権の最高機関にして唯一の立法機関」である国会の議員の選択を通じて、行政権への影響力を行使する。また司法に対してもやはり立法権の力は大きい。
そういう国民としての選択の自由を大いに考えることこそ、国民主権の本質が宿っているのである。是非皆さん、億劫がらずによく考えて、選挙権、国民審査権を行使しましょう!
世の中は、実は自分たちの力で変えることが出来るのです。